アタリしか引かない。

※全てフィクションです。エロと精神とらぶ。

お気に召すまま、行ってどうぞ

コミュニケーションの話を続けるね。最近わかってきたことがあるよ。

 

わたしはわたしの言葉をもってして人からジャッジされることをもはや完全に諦めてる。と気づいた。どうぞ、お好きに解釈してください。でもコミュニケーションや心を尽くすこと自体を諦めてるわけじゃないよ。むしろそっちをメインにしたから人のする借り物の判断は切って捨ててる。一般論からジャッジされるのはもう仕方がないって思っている。最近はあまりそういうこともなくなったけど。

 

人は人にノンバーバルの圧力をかけて、「こういいなさい」「こう答えなさい」「間違うな」ということを要求しているふしがある。察しろよ、空気読めよ、というやつがそう。このこと自体の是非は散々論じられているだろうから特にその視点から言うことない。それに囚われている時点で空気を読むことに参画させられているから、その囚われの人とは話すことは何もない。

空気を読みたくないならその場の空気そのものになればいい。結局空気になるとしても、そこにその人のお人柄が出るだけの話だよ。そこで威圧感が出るならその人は察しろ文化を持ち込んで周囲を恫喝しているにすぎない。あるいはへりくだって周囲の機嫌を取ろうと姑息に立ち回ったりもする人もいるかもね。どちらにせよ、その人がそういうやり方をする人だったことが明らかになるだけ。

わたしはそれだけを見てる。そしてその人の言葉そのものを聞くようにしたいなと思っている。それは言葉の意味じゃなくて、その言葉がその人のどこからきているのか、どこから響いてきているのかを探りながら聞こうとしている。その人が本当はどうしたいのか、ということを超えて、あなたはどんなひとなの?何を指針としているひとなの?ということを聞いている。それにはわたしもどんな人なのかをきちんと見せないといけないんだけどね。これって自己開示とは全くべつのことだよ。そういうエセ心理学はきらい。けどこれがまじで難しいんだな〜〜。だから目下挑戦中ということで。

 

わたしは人間不信、ということにはついぞ陥らなかったな。これに関しては本当に周りの人たちのおかげでしかない。だって劣悪な環境だったら人を信じようがないもんね。ありがとね。あいしてるよ。たまに悪口も言うけどさ。こう書くと頭がお花畑でゆるゆるふわふわで苦労を知らないで世間知らずで…と思われるだろうね。実際にそう言われたことも一度や二度じゃない。でもそう言われると、本当にそう思うの?と思うと同時に、まじでありがとう、と思って安心する。その人の従うもの、指針としているものが一発ではっきりするから、こんなに有り難いことはない。

いやしかし世間知らず上等じゃないですか?わたしだって世間のことも少しはわかるよ、今差別を受けているLGBTのひとらや社会的弱者が受け入れられて受け入れられることすら消えたらいいなと思わないでもないし。あとすぐ炎上するよね。でも本質的に自分には全く関係ないことだと思ってる。LGBTの当事者でもないのに目くじら立ててるひとは暇なのか?だいたい、世間があなたに何かしてくれるの?って思う。かりそめの安心を与えてくれるだけじゃないの。まあもし何かしてくれたとしても、わたしは世間と深く付き合うことは絶対にないし一番避けたいことに変わりはないけどね。人は自らがしたことでしか真の満足は得られないと思うよ。返報があっての満足じゃないんだよな。返報は副産物としてお土産的な、ラッキー的なもので、それを満足の根本だと捉えるのはかなり危険な思想だよ。自分の根拠を他人に委ねてしまってるんだから、こんなに不安定なことはない。世間に身を委ねるってそういうことだよ。わたしにはこんなに怖いことはないと思うけどね。まあひとそれぞれだから、好きにしたらいいか。